日本初演バロック・オペラ『プラテー』無事終演♪

投稿日:2012/2/12 日曜日 | カテゴリー:舞台のお知らせ 

2月8,9日に上演致しました、ジョイ・バレエストゥーディオプロデゥース第1回オペラ公演
日本初演バロック・オペラ『プラテー』 無事に終了致しました。
お客様、音楽関係の方から沢山の評を頂き、『再演』のお声を沢山頂いております。

数あるブログの中から、一つ、ご紹介させて頂きます。

ジョイ・バレエストゥーディオ ラモー 歌劇『プラテー』
 武井基治 題名役(主演) 2/9 ① 【快挙!】

フランス最高の作曲家と問われたときに、ラヴェルやドビュッシー、フォーレに加えて、リュリやラモー、クープラン一族の名前が出ることは、欧州では、もはや当たり前のことだ。ラモーはバロック時代でも最高の華であり、音楽家や歌手にとって、その歌劇を上演することはとても楽しみなことだし、演出家の腕のみせどころでもある。同時に、観客が必ず喜ぶようなドル箱企画でもあるのだ。日本にも、パリ・シャトレ座で上演されたエルヴュー&モンタルヴォの振付・演出による歌劇『レ・パラダン』が持ち込まれ、ウィリアム・クリスティ&レザール・フロリッサンの伴奏によって華々しく紹介されたのは記憶に新しいところだ。これがざっと5-6年程前のことだが、それ以後、ラモーの舞台作品が私たちの目に広く触れるような場所で上演されたことはなかった。

しかし、寡聞にして知らなかったが、2007年に、このジョイ・バレエストゥーディオ(以下、JBS)はバレエ公演として、カットを入れた特別エディションながらも歌劇『プラテー』を舞台にかけたことがあったそうだ。その後も新国立劇場はもとより、二期会、藤原歌劇団、古楽団体などにおいて、ラモーの舞台作品が上演されることはなく、今回、このやや唐突なオペラ公演が生まれるきっかけになった。チェンバロ奏者で古楽器製作家の武久源造を音楽監督に迎え、歴としたオペラの版に戻し、古楽器は初演のヴェルサイユ版にあわせた低いピッチで調律するというこだわりまでみせて、公演に適当な箱も見つけた。渋谷区文化総合センター大和田のなかに入っている「さくらホール」である。

このような魅力的な作品が、選りにも選って、そう大きい組織でもないプライヴェーターのバレエ教室の主催で上演されることは驚きであり、快挙でもあり、また一面では、音楽界にとっての恥であるのかもしれない。しかし、結論を先に申せば、一部に著名なプロ奏者や歌手を含むアンサンブルも含めて、公演は大成功した。ブラヴィーではすまない。ブラヴィッシモだ!

【シンプルで素朴な舞台、ユニヴァーサル・デザイン】

ラモーの魅力は欧州ではもっと誇大的に、派手に強調されている。政治と歴史の問題はあとで書くかもしれないが、この作品はルイⅩⅤの太子となるブルボン王家のルイ・フェルディナンと、スペイン王女のマリー・テレーズの婚姻に際して、その祝典のために、いわば余興としてつくられたものである。その後、パリのオペラ座に移って、より甘みのあるレパートリー作品として上演が重ねられた。今日、ミンコフスキあたりが元気いっぱいに観客を楽しませているのは、多分、そうした版である。一方、演奏や歌手のレヴェルの問題もあるにはあるが、今回の舞台はより上品で、シンプルだ。当時の人たちは笑い転げたにしても、現在の我々からみると、なかなかに苦みもある心理劇としての味わいがある。一方、表面的にカエルの歌や、動物たちの出現、あるいは、わかりやすいコケティッシュな劇に目を輝かせるのも悪くはない。

きっと、ラモーはそういう風にして、幾層もの楽しみ方があるミルフィーユをつくってみたのにちがいない。2人の結婚はルイ王太子が先にポーランド王の娘を選んだこともあって、冷えきっていたフランスとスペインの関係を取り戻す意味をもっていた。それに絡めて、ラモーは浮気者のジュピテルがジュノンと仲直りするテーマのリブレットを用意した。これは、いま書いた2人の図式にぴったり来る。だが、それにしては、あの愉快な沼の女王、カエルのプラテーは何なのであろう。彼女が自分を騙したギリシアの王を呪う場面が、最後である。確かに、お決まりのバレエ音楽を入れて、最後はシャンシャンと締めている。だが、カエルの女王の呪いは?

まあ、そのことについては、今回の上演ではまるで解釈していないので、これ以上、首を突っ込むことは避けたいと思う。

子どもたちもたくさん通うバレエ・スタジオの公演ということで、そのうち、コケティッシュな部分が強調されているのは当然であろう。しかし、ユニヴァーサル・デザインというべきか、これを徹底することによって、より知的レヴェルの高いところを要求する観客(私のことではないかもしれない)にも上演は十分に応えていた。プラテーは言ってみれば、夫婦関係修復のためのダシに使われるわけであるが、彼女が選ばれた理由は第一に容姿が悪く、ジュノンの誤解を受けないということ。第二に、そのくせ高慢な性格で、騙しても罪がないということによっている。その第二の理由が本当にそうなのかどうか、疑問をもった人も多いことだろう。そのことについては、追って、考えを巡らすべきだろう。

【2つの世界】

それにしても、観客はどうしたって、プラテーに共感するのは当然である。私はこのプラテーのはなしを聞くと、多少、ディテールでずれるところはあるにしても、『源氏物語』の末摘花のはなしを思い出してしまう。いちども愛されたことのない女が、世間も羨むようなときめく人(今回は神)に求められるのだから、有頂天になるのも当たり前。しかし、同時にそのようなウマい話はないのも当たり前である。彼女は神さまと人間たちの犠牲になって踏みつけられる。このような構図から、大抵、観客はプラテーの醜さのなかに可愛さを、その悲劇のなかには同情を感じるものである。だが、私はもうひとつ重要なテーマがあることに気づいた。

それは、2つの世界があるということである。ヘーゲルの登場(ラモーより後である)、そして、決定的にはマルクス主義の流布以降、「弁証法」という言葉は「濫用」といってもよいほどに、世間へと広まった。その哲学的意味は私の得意分野でなく、説明は不可能としておく。しかし、要するに物事には2つの対立的な側面があり、それらが同時に考えられる必要があるということだと理解している。このことは既に、この劇のプロローグで暗示されているが(それはメナードとサテュロスの裏事情を暴くテスピスの『狂歌』を思い起こせばよい)、より決定的には第1幕が重要だ。ここではもちろん、プラテーの登場が最重要事項となるわけであるが、この題名役こそが、この劇の二面性を象徴していることは言うまでもないだろう。

つまり、プラテーはシテロンやメルキュールの言葉によって、沼に住み着く醜悪な人物(カエル)で、そのくせ勘ちがいも甚だしい高慢なオンナであると印象づけられる。ところが、確かに面白い格好で登場するものの、実際に歌い出したプラテーの姿は、高慢で近寄りがたいというほどのトゲはない。多少、自分に甘く、都合よく考えがちなところもあるにはあるが、それはすこしも悪意的には聴こえない。まずは、このギャップを感じなければならないのである。沼の住人たちは概ね女王になついており、高慢ちきで手のつけようがなく、人々を苦しめる者だという感じはしないのだ。

それどころか、女装+カエル風の姿で登場する武井基治について、私は初めからすこしも醜いとは思わず、一目みたときから、愛らしさを感じてしまったほどである。念のために言っておくと、私は意外に保守的な人間であり、オネエ・ブームみたいなものには反吐が出るし、「性同一性障害」は疾患などではないと感じている。それはそれとして、実際、はなしが進めば進むほど、その愛らしさは観客の共感を呼ぶにちがいない。第2幕最後のグランド・コンチェルタートでは彼女が「新しいジュノン」に譬えられるところで、その歓喜が頂点に達する。本来は婚礼の誓いのところに来るはずであるが、これはジュノンに邪魔されるから、この部分のカエルの合唱がプラテーにとってのクライマックスなのである。合唱の可笑しみもあって、既にプラテーは舞台の嫌われ者どころか、人気者になっているであろう。

今回の舞台では、武井基治がこの奇妙な役を思いきり爽やかに、衒いもなく上手に演じていて、余計に愛情は高まるばかりである。

【イタリア・オペラへの風刺】

なお、この役については、ラモーはカストラートを使わず、テノールに歌わせている。この作品では、明らかにイタリア・オペラへの風刺が入っており、それはフォリーのアリアでアジリタをとりわけ不潔に用い、歌詞のアイロニーに当て嵌めているあたりに象徴的に感じられる。ラモーの音楽は典型的なフランスの伝統に基づいており、声楽のアジリタは控えめに、感情表現などに必要なだけ多すぎずに用いられ、管弦楽の装飾にもその傾向は顕著である。アリアはあるが、ナンバー形式ではなく、ドラマ全体を籐椅子に座って本を読むような雰囲気で感じられるようになっている。フランスの音楽家たちは、イタリアから来た者たちが自分たちの音楽を理解するのは難しいだろうと感じていたが、正に、そのような視点がラモーの作品には顕著である。

【演出家唯一の見落としについて】

すこしはなしが逸れたが、「2つの世界」についてのはなしである。いま見てきたように、ギリシア王やジュピテルの使者からみたプラテーの世界と、実際に、彼女と接している者たちや、彼女自身の思い描く世界では、まったく同一のものではない。ラモーはこのメッセージを、何度も繰り返して表現している。そのことは、例えば、愛をめぐるジュピテルとジュノンのちがいという問題も含んでいるし、突き詰めていけば、人それぞれにちがう世界があり、それが結びついていくところにこそ、この世界の面白さも怖さもあるということが、こうして生々しく表現されているわけである。

私がひとつ不快に思っている場面は、プラテーのヴェールを剥いだジュノンが、彼女の容姿をみて爆笑する場面である。この和解の鍵となる重要な場面は、実は、もっと深く慎重に解釈されなければならない。この部分は先に述べたような世界が、はじめてぶつかり合うときでもあるからだ。あそこに響くジュノンの声は、実にえげつない。だが、私はあのえげつなさのなかに、ラモーは我々が生きていくのに必要な、物事の本質を詰め込んでいるようにも思うのだ。うまく言えないが、嫉妬ふかい英雄の伴侶の笑いは、決してプラテー自身に向けられたものではない。むしろ、彼女を騙した者たちに向けられたもの、ひいては、自分自身に向けられたものだったのではなかろうか。

その点に関してのみ、演出の錦織佳子女史の見落としを指摘することもできるだろう。しかし、あとはとても良い舞台だった。詳細は、次の記事に書く。

 (②につづく)

【錦織佳子の奇特な才能】

すべての音楽家と演出家と舞台関係者は、そのプロダクションが良いものになるようにと最善の努力をして、オペラをつくる。それなのに、残念なことだけれども、その成果が正当に実を結ぶのは数少ない公演だけだ。良い歌手をたくさん集めて、名のある演出家に舞台づくりを頼めば、素晴らしい公演になるというわけでもない。しかし、センスの良いつくり手によって、丹念につくられたものはそう簡単に揺るがないのも確かだ。そういう意味で、このJBSの振付家であり、舞踊指導家でもある錦織佳子は、実に奇特な才能をもっているようであった。

ラモーのつくり方と同じように、錦織もいくつかのミルフィーユ構造で舞台を組み上げている。メルヘンティックで、幾分、子どもじみた幻想性がベースにあるが、その一方で、とても冷徹な澄みきった視線がいつもどこかに働いている。バレエのコリオグラファーとはそういったものなのか、新国のビントレーにも同じようなことを感じる。彼はよりプロフェッショナルなセンスをもち、明らかにインテリジェンスが高いが、錦織の場合はより鋭い感性で、良いものをきっちりとつかみ取っていく感じがある。そして、深く作品にのめり込んで、その内側から作品を解剖していく繊細さは変わらない。

2人に共通するのは、作品が語るどのような面にも、同じような厚みを感じることができるということである。この面は下らないが、ここは意義深いというような差がないのである。例えば、ペンギンをみて単純に愛らしさを感じることと、その生存が脅かされていることへの視点は、まったく同価値に扱われる。そして、それらの異なる視点を同時的に、ミルフィーユを噛みしめるような「構造」、もしくは「歯ごたえ」で感じさせることにより、作品のもつ深いテーマ性を親密な実感として受け止めさせることこそ、彼らの真骨頂なのである。

【歌手たち】

錦織はこの作品の演出・振付では、ラモーが仕組んだ風刺性や政治的な配慮、作品のもつ文学性といったものについては、表向き、なにも関心を示していないようにみえる(あくまで表向きのことだ)。観客は大体、武井の演じるカエルの女王の愛らしさや、健気さに、感動していればよいのであって、さしあたって、それ以上のことを考える必要はない。実際、この作品の音楽もそういうものであって、動物や鳥たちの声がきれいに模され、大昔、娯楽のない農村で教会のオルガニストが担ったような役割が非常に効果的に用いられていた。また、性格描写を豊富にして、等身大のキャラクターを感じさせることに腐心したこともよくわかる。具体的には、レチタティーボの歌い方がきわめて活発で、ポップである点が特徴的であり、その方法が特に嵌まっていたのは題名役の武井であるのは言うまでもないだろう。

だが、ほぼ全幕を通じて登場する新津耕平や加藤宏隆も、その点では決して負けていない。特に新津はハイ・テノールの高音発声に特長があるが、私はそれよりも、言葉のアーティキュレーションというようなものに感心すること頻りであった。彼の発する言葉には不思議と要所に引っ掛かりがあって、そのことで、言葉がスッキリと身体のなかに入ってくる。しかも、彼の役回りはプロローグとそれ以後で変わっており、プロローグではその当時のロック歌手のようなものであるテスピス役として、朗々と歌っていればそれでよいが、第1幕以降はジュピテルの使者、メルキュール役となるので、今度はレチタティーボが主体となり、役割はストーリー・テリング(狂言まわし)が主になるという感じである。このような変化をつけながら、常に声の魅力を保ったのは立派で、歌唱についてはこの日、いちばん印象的であった。

題名役は常に出続けているが、こういう脇役に乗せられて輝くという感じのキャラクターでもある。

第1幕では彼女の侍女、クラリーヌのアリアが単独でわりに有名なのであるが、だからというわけではなく、女王と周りのものの関係を探る上でも、これはとても重要なナンバーだと思っている。これを小倉麻矢というソプラノが、正にみずみずしく歌っていた。こういうのが細かく、上手に決まっていくこと頻りの舞台であった。フォリー役の唐澤まゆ子はレザール・フロリッサンの公演に出演し、アン・デア・ウィーン劇場の舞台にも立ったような歌手であるとはいえ、決して彼女だけが目立つということもなかった(ディクションはやはりもっとも自然だが)。ソプラノというけれども、中音域の厚い声質に特徴あって、メゾにちかい声質も有していた。歌手陣はなべて素晴らしく、個々よりはアンサンブルに拍手を送るべきだろう。

【フォリーにみるラモーの風刺】

それにしても、唐澤の演じたフォリーという役は、この劇における風刺の神であり、ラモーの分身でもある。筋の流れにはほとんど関係なく、主要なキャラクターを茶化したり、そのなかで、内側から作品の提示を試みる役割を演じている。この作品の面白さのひとつは、ラモーが作品をつくりつつ、その先からタネや仕掛けをさりげなくばらしていくところに求められるのではなかろうか。

フォリーのところ以外では、後半、音階を順番に上昇していくような部分があり、ここでラモーが自らの用いた音楽の基本的な構成要素を示しているのは間違いない。また、さりげない台詞のなかには、この作品の隠されたテーマである平和や和解、それに、ラモーの創作美学のようなものが随所に散らされている。そのなかでも、フォリーは自ら歌い、あるいは、音楽(管弦楽)を動かすことで、その役割を象徴的にこなしているのだ。今回の舞台ではダンサーが上手について、フォリーの役割を捕捉するような形にして気が利いていた。

ちなみに、フォリーという言葉は、愚か者とか戯れ言といったような意味であるようだが、ここで道化まわし=阿呆の役割を演じているのはみたとおりである。シェイクスピアでは悲劇的な暗いユーモアを示すところだが、ラモーの道化は明るく、芯がつよい。このような役回りを颯爽と歌ってしまっては、味わいも半減だ。唐澤はその点で、役柄をうまく崩して、かつ、クールに演じきったという感じがする。

【ピースの組み立て】

ところで、これは「青いサカナ団」の公演などについても言えることだが、良い公演では、歌手の技量の凸凹というのはそれほど気にならないものだし、それよりはよく役柄が理解され、そのキャラクターに愛情(=実感)をもって演じられているかという点で印象が決まる。バレエにしても、彼女のスタジオのいろいろなレヴェルの子が出ていたが、その技量は技量として、その場で自分が果たさなければならない役割というのが、大抵、よく果たされていたのである。こういうピースを上手に組み立てたのは、無論、錦織のプロデュース力のなせる業であったし、よく相手を知っている(把握している)ということでもあったろう。

【演出的機動性の高い美術】

美術的にも、錦織のセンスは非常に良い。オペラということを強調しているが、舞台装置等は、やはりバレエのテイストがつよい。ただし、これは肯定的にいっている。このメリットは空間が広く、フレキシブルに使えるということである。それを利用してのテンポの良い演出が可能であり、歌の部分とバレエの部分とが切れ目なくつながって、ラモーの音楽に相応しい印象を与える。キビキビとした人の動かし方は、コール・ド・バレエの指導などで培ったものであろうか。

第1幕は背景に丘の連なる秋の田園風景。前面はさほど装置をおかないが、登場人物は人間というよりはニンフであり、半数は角をもっていて牧歌的な感じがすることで、装置なしでも背景にうまく対応している。沼の場は薄暗くじめじめしているが、不気味さはなく、ぎりぎりアーティスティックに感じられることで、プラテーの親しみやすさを増している。女王の赤いマントを侍女たちが何人かでもち、開けたり閉めたりして音楽の伸縮と合わせ、コミカルにプラテーの魅力をアピールするのもポイント。カエルたちがもつ蓮の葉は、見かけの愛らしさもさることながら、さわさわとした響きが素朴で、とても魅力的。プラテーの傘もチャーム・ポイントで、女王の威厳ある姿から、普段着風の親しみやすい姿への早変わりなどは、いかにもバレエ的な発想だが効果的だった。

薄幕をおろして、ステージ中央に丸いスポットを当てつつ、さらに、さざ波のような映像を薄く投射すると、2Fからはまるで緑色の水が舞台上に湛えられているように見えて幻想的である。ジュピテルの雲は思いきって大きくし、なんとなく歌舞伎の装置のようなデフォルメが面白い。終幕は、プロローグで用いた荷車が花で飾られ、祭壇となっている。最後、プラテーが王を呪うところでは赤いライティングが用いられた。すべてセンスよく嵌り、見るものを飽きさせず、しかも無駄がない。新国のオペラの演出より、はるかに気が利いていた。

【衣裳】

衣裳、ステップなども自由な発想に基づいており、例えば、骨組みを減らしたフープ・スカートを足もとまで垂らし、中途半端な動きで回し踊るようなコケティッシュなダンスは印象的である。こうした選択は結局のところ、コリオグラファーと観客の間に、そのセンスをめぐる対話を生じさせるものだが(クラシック・チュチュを着せていれば、そのような議論も起こり得ない)、大体においては錦織のアイディアは、観客のもつアイディアを良い方向に刺激するであろう。

【管弦楽】

さて、武久源造のもとに集ったメンバーは、バロック・チェロの懸田貴嗣など9名である。名フィルにも所属するバロック・オーボエのジル・ヴァソンなどはいくつかの仕事を断って、この公演を優先したというはなしだ。この演目でオーボエは大事な楽器なので、貴重な戦力だったはずである。武久はコンティヌオではなく、専門外のパーカッションを担当したが、いくらマルチな彼であっても、さすがに打楽器は難しかったようだ。しかし、アンサンブルは急造にもかかわらずまとまっており、大体において申し分なかった。

【まとめ】

こうして見たきたように、すべての要素で及第点以上に達しながら、しかも、それぞれが狙い通りに嵌っている奇跡的な舞台であった点を特筆したいのである。

前の記事で述べたような先陣をきる素晴らしさだけではなく、こうして高いレヴェルで公演を成功させたことこそが、彼らにとって真の誉れなのだ。この舞台をみた人たちは、次にラモーの作品が舞台にかかるのを楽しみに待つだろう。残念なことに、その機会は待っても待っても現れることなく、再びこのバレエ団に期待するよりほかにないのかもしれぬ。だが、少なくとも人々は学んだ。オペラとしても、バレエとしても、これほど活き活きとして、こころ躍るようなドラマは、ラモー以外にはなかなかあり得ないではないか! そのことを実感させる舞台をつくったことが、この舞台が成功したことの何よりの証拠なのだ。

素晴らしい公演に、惜しみない賛辞を贈りたい。


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